絵本学会

[第20回]絵本学会大会・報告

[第1日目]5月3日(水)


14:15~15:35 座談会 「太田大八先生を語る」 
       司会:藤本朝巳(フェリス女学院大学)
       今井良朗(武蔵野美術大学)
       川端誠(絵本作家)
       澤田精一(絵本学会理事)
       松本 猛(絵本学会会長)


座談会「太田大八先生を語る」

藤本:絵本学会設立に尽力された太田大八先生(以下、太田さんに統一)は、昨年(2016年)8月に逝去されました。本座談会では生前の太田さんを偲び、あらためて絵本作家としてのお仕事、絵本と子どもの本の発展に尽力された功績を振り返ってみたいと思います。
 
画家の著作権の確立と童美連の設立
松本:太田さんの父親はウラジオストックに本店を置く貿易商でした。1918年に大阪に生まれた太田さんは、ウラジオストックにわたり、ロシア革命の影響により1922年、父の郷里である長崎県大村町(『だいちゃんとうみ』の舞台)に引き揚げました。1928年には一家で東京に移り、1941年に多摩帝国美術学校図案科を卒業しています。孤独な青春時代を過ごした太田さんは、喫茶店に入り浸ってジャズを聴き、映画にのめり込んでいきます。よく言われる“不良の雰囲気”はこの頃に形成されたのだと思います。卒業後は日本世界文化復興部建築部に入社し、日本各地で建築の指導を行っています。1945年の3月には東京大空襲、8月には出張先の広島で原爆の悲惨な光景に遭遇します。反戦への一貫した姿勢はこの体験によるものでしょう。戦後は友人の編集者の誘いでイラストレーションの仕事をはじめます。1962年にはそれまで全く認められていなかった挿絵画家に著作権をと呼びかけ、教科書執筆画家連盟を、1964年にはその活動を引き継ぐ児童出版美術家連盟(童美連)を設立し、初代理事長に就任しました。運動に関わる画家は仕事を貰えないというといったこともありましたが、粘り強い裁判闘争の結果、子どもの本の挿絵画家の著作権がはじめて認められました。当時、画家の著作権に理解がある出版社は童心社や福音館書店などわずかしかありませんでした。また、太田さんは挿絵画家ではなくイラストレーターという呼称にこだわり、1969年には日本イラストレーター会議を設立しています。
 
絵本学会の設立、「子どもの本WAVE」のこと
今井:出版会館で絵本学会設立のためにお会いしました。非常にやわらなか物腰のひとと言う印象と共に凄いエネルギーを感じました。それが、そこに集まった人たちを動かしたのだと思います。太田さんが絵本学会会長であった期間は短いですが、一言一言に重みがあり、それが現在の絵本学会に引き継がれていると思います。太田さんは多くを語らない方でしたが、大切なことは行動(活動)で示されました。イラストレーターの地位が低い、これを何とかしたい。そのために作家を交えたフォーラムのような絵本学会を設立する必要があるとおっしゃっていました。初期のころ若手作家を養成する講座を絵本学会でやりたいとおっしゃり、わたしも事務局長として何度か試みましたが、うまくいきませんでした。学会が研究と実作をどう結び付けるか、関係性をつくっていくかの挑戦は、新しい学会の姿を形作ることになるだろうと思います。その意志を引き継いで行くことが、ここに集まった皆さんに託された課題だと思います。
澤田:“不良だったと”いう話がありましたが、東京に引っ越してきて小学校に通うのですが、そこから学校に馴染めず、孤独に拍車をかけていったと思います。そのあたりは自伝『紙とエンピツ』(BL出版、2009)に書いてありますね。また、広島で原爆を目の当たりにしたことが、その後の人生で大きな意味をもち、社会とのつながりを意識していくことになって、画家の著作権確立のための運動に結びついていったのではないでしょうか。絵本学会のことですが、絵本学が提唱された「PeeBoo」16号の前の13号で、じつは太田さんから「絵本学」の発言があったんです。出席者の皆さんが呆気にとられているなかで、川端さんが田島征三さんの『ふきまんぶく』は、正確に村の配置が描写されていて、これは今までの絵本にはなかったと発言されたんです。つまりそれは絵本学に繫がっていくものだという含みのあった発言だったのですが、田島さんはそれはそこに住んでいたから、それをただ描いただけだといって、川端さんの意見を認めないんですね。この行き違いはおもしろかったです。「子どもの本WAVE」は、画家の権利を守る活動ではなく、絵本をもっと普及させたいと始めた活動でした。「夢基金」を活用しての活動は各地で歓迎されました。太田さんの行動は、絵本を描くだけではなく、その権利を守る。権利を守るだけではなく、絵本を普及させて画家の収入も安定させていく。そういう活動であるとともに、子どもたちが最初に出会う絵本の質を高め、多くの子どもたちが絵本にふれることができるようにしたいという願いがありました。
 
絵本の仕事と人柄
川端:「Pee Boo」の創刊は1990年ですが、その2年前から準備が始まり、初めて太田さんにお会いしました。僕から見るとジェントルマン。声を荒げることなど一切なく、ちょっと不良かなと思うこともありましたけれど。僕は武蔵野美術短期大学の商業デザイン科にイラストレーターを志して入りました。2年のとき選択科目で絵本をとり、先生が読んでくれたのが『フレデリック』だったのです。それが強烈に残っています。レオーニに感じたのは作、絵を一人でやっていることだったのです。自分で文を書いて、デザインまでしてしまう。これはすごくやりがいがあるなと。レオーニはカーボンで描いたり、鉛筆で描いたり、スタンピングをしたり、いろんな技法を使っています。日本の絵本画家でそれができるのは太田さんくらいでしょう。太田さんの幅広さ、バリエーションの多彩さには感心します。そうだ太田さんみたいになんでも描いちゃおうと思いました。それから、太田さんの絵を見ると、とにかく見て描いている。スケッチして描いている。『だいちゃんとうみ』にも、ちゃんとあるべきものが描いてある。見ないとあれは絶対書けません。
松本:太田さんの作品をちひろ美術館のコレクションにすべきかどうか随分迷ったのですが、これが代表作だと言う作品がなかなか選べない。太田さんは器用で、何でもできちゃう。『やまなしもぎ』のような作品の日本の情景描写、例えば川の流れのリズムの表現には琳派の影響を感じますし、色調のなかにいくつかの色を重ねていく大和絵の流れも感じます。一流のイラストレーターであることは間違いないのですが、太田さんの絵が何かが、僕にはわからなかった。日本の伝統的な表現をしたいという思いと、もっとおしゃれな絵を描きたいと言う思い、浮気性だったんじゃないかな。例えば、それはお酒を飲みに行ったときにも感じました。次々に場所を変えられる。
川端:それが太田さんだと思いますよ。どの時代を描かせても描ける、日本の民話でも。それはすごいことだと思います。長新太さんも、太田さんはもっと評価されていいんだけど、自分のスタイルがないから評価されづらいんだと言っていました。確かに、飲みに行くと、30分くらいで、次の店に行こうと言われましたね。
澤田:担当編集者として、まずはラフを描いてもらうのですが、太田さんは描かれないんです。ラフをもとに編集会議で議論するんですが、太田さんの場合は何日ごろの刊行を予定しているとしかいえない。お願いですからラフ描いてくださいというと、マッチ箱の裏にさっと描いてこれでいいだろうって。それは編集会議に提出できないんです。ラフを描いてそれに沿って本描きに移るんじゃなくて、即興的に描くスタイルなんじゃないかと思います。
『つるにょうぼう』を赤羽末吉さんと太田さんが描いています。赤羽さんはつうの顔を小さく、首を長く描いて鶴の化身であることをわかるようなフォルムで描いているけれど、食事の場面は寒々しい。太田さんの絵は、つうは健康的でかわいらしく、食事の場面もあたたかい。僕は『つるにょうぼう』の解釈は太田さんの方が深いと思いますね。
今井:フェリス女学院大学での第三回絵本学会大会の後で、太田さん、松本猛さんと飲みに行った時のことが忘れられないですね。太田さんはピンクのかつらを被って、僕らも被らされて歌ったんです。太田さんは色んな面をもっていらっしゃる。スタイルがないという話がありましたが、そこが大切で、太田さんはあえてスタイルを作らない、それが太田さんの手法というか、作法だったと思います。そこが僕は好きでした。“絵本はコミュニケーションだよ”という言葉がよくでてきました。この言葉は、絵本はコミュニケーションを作りだすという意味と、絵本は絵が物語る視覚言語なんだと言う意味、いろんな意味を込めた言葉です。いま、いろんな人が言葉を変え、形を変えてそれを実践されていて、絵本学会も20年が経過して、ようやく太田さんの想いが実を結びつつあるのかなと思っています。
 最近『かさ』を使ってよく話をするのです。最初は文字のない絵本としての興味から取り上げていたのですが、今は違います。『かさ』を見ているといろいろな記憶がよみがえって来るのです。『かさ』は太田さんの幼少期から見て来た原風景が表現のベースになっていて、それを共有したいという想いが詰め込まれている、読者自身の記憶と重なるんです。同じ風景ではないにしてもどこかで。文字はないけれど、そこにはすごく豊かな言葉がある。絵本の力ってこんなにあるんだと言うことをこの絵本によって語り続けることができる。太田さんの作品を検証していくと面白い発見があります。それを若い人にやってほしい。
松本:太田さんの原風景の話がでましたが、それは映画だと思うのです。若いときにものすごく映画をみていらっしゃった。太田さんの自作の絵本を見ると、場面が連続していることに気づきます。彼にとって絵本はすべてを自分でコントロールできる映像の世界だったのかもしれません。
藤本:石井先生(石井光恵)、生田さん(生田美秋)と、絵本学会の共同研究で太田さんの絵本を取り上げました。わたしは昔話絵本を分析したのですが、見るたびに発見があって、絵の力、ことばの力をとても感じました。『やまなしもぎ』は、福音館書店の「こどものとも」にすでに佐藤忠良さんのすぐれた作品があるのですが、それを超えるような絵本をお描きになりました。この絵本では、三人の息子が次々に出かけていくのですが、時間の経過を示すために色彩を変えて描いています。語りの背景にあるものまでも描いています。
ここで、突然で申し訳ありませんが、会場からも、お付き合いのあった村上康成さん一言お願いします。
 

会場からの発言
村上康成(会場):僕も川端さんと一緒に『Pee Boo』の編集でご一緒させていただきました。ダンディーで怖かった。作品は「個性のない個性」というのがすごいと思いました。太田さんが絵を描く姿勢は、まず物語を熟知し、それから絵を決めていく。この作品はこんな感じというように作品ごとに一番良いと思われる手法を採用していくイラストレーターだと思います。作品に対する真摯な向かい方というのは、僕自身の戒めでもあるのですが、若い作家にも見習ってほしい。
三宅興子(会場):後期の昔話絵本に描かれた女の人がすごく色っぽいと思うんです、それが特徴のような。
川端:形だけを描くんじゃなく、内面を描かれているからじゃないかと思います。
絵本の部屋・加賀見(会場):私たちの手作り絵本を見ていただいたとき、僕はもっと絵本の勉強をするよ、絵本の基本を勉強するよとおっしゃったのには驚きました。いつも基本に立ち返って勉強をされているのだなと思いました。
前沢明枝(会場):インタビューでうかがったとき、日本画の小村雪岱が好きで、挿絵を研究されていたことを思い出しましたので付け加えさせていただきます。
藤本:皆様ありがとうございました。時間が参りましたのでこれで座談会を終わります。
(報告まとめ:生田)
 
※ミニ展示コーナー(教室)を設置し、ポスターやスケッチなどのコピー、及び太田先生の語られた文章や他の作家の方の言葉などをパネルに展示しました。
 
※ 資 料 『太田大八作品集』童話館出版 2001年
      『紙とエンピツ』BL出版 2009年
      『絵本作家のアトリエ1』福音館書店 2012年
      『この本読んで!』[太田大八さん 92歳、いまも現役! / 絵本で世界をひとまわりロシア編]2010年冬号
      『絵本の作家たち (2) (別冊太陽)  小野明 平凡社 (2005/04)
※ なお、太田先生の作品は、現在入手できるものはフェリス女学院大学図書館で購入して、期間中、展示しました。(57冊)

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