絵本学会

絵本を語るそのなかに
村中李衣

澤田精一さんからバトンを渡されました。澤田さんの語られた「1冊の絵本をめぐってのクリティシズムにはなかなかお目にかかれない」ということばが胸に刺さり、絵本を語るその中に、なにかひとつでも、読むという精神の営みと向かい合ったことばを残したいと思うのですが、そうそうたやすいことではなさそうです。
目下私は、女子受刑者と共に絵本を読みあう時間を持っています。6回にわたって行う改善指導プログラムで、参加した受刑者は、たくさんの絵本の中から最終的に1冊の絵本を選んで自分の声でその絵本を朗読し、録音したテープを残してきた家族のもとに届けるのです。朗読という言い方は適切ではない気もします。6回のセッションを通して彼らは「見えない相手にも自分の思いを声で届けられる」ことを学び、マイクを通してではあるけれど、間違いなく「見えないたいせつなだれか」と絵本を読みあっているのですから。
さて、このプログラムを通して、私は絵本の中に潜んでいる「声」の力を再認識しました。ご存知のように絵本は、絵とことばによって成り立っています。(視覚表現メディアとして、多くの視覚表現要素と物語によって成り立っているという言い方もできます。中川
素子「絵本のメディアリテラシー」『絵本の事典』より)
見落としがちなのは、絵本には、そうした絵、ことば、画面構成のすべての要素の中から立ち上ってくる「声」があるということ。この「声」に耳を澄ませた時、眠っていた読み手の身体が蘇ってくることがあるのです。
耳を澄ませる、というこなれた言い方をしました。けれど、作品の奥に潜む声に耳を澄ませるということはとてもシンプルな行為なのに、〈教育的読みの経験〉とか〈多すぎる刺激〉とか、さまざまなことが妨げになって、実際はとても難しいのです。しーんと静かに読み聞かせしてれる人の声を聞くことが「絵本に耳を澄ます」ということではありません。
このプログラムに参加したAさんは、なかなか自分が声に出して読んでみようと思う絵本がみつからず、100冊近く並べられた絵本たちの前で、毎回難しそうな顔をしていました。「なるべく簡単でかわいい絵本を」と言いながら、実際に読んでみると、低音が他者よりも響く自分の声を持て余し「なんかちがう・・・」。そんな彼女が、五味太郎の『そらはだかんぼ』(偕成社)に出会って、少しずつ変わっていきました。最初のうちは、見開きの左のページに描かれる男の子がひとつずつ洋服を脱いでいく様を「するり」「ずるっ」「すぽっと」「つるん すー」と擬音を手掛かりに読んでいくことにいっしょうけんめいな様子でしたが、そのうち、画面には姿を見せず右ページにことばだけで四度登場する「見えない母親」のことばに、心が傾いていく様子がわかりました。「ライオンくん! おふろ ですよ はだかんぼに なりなさい」「ひとりで ちゃんと ぬげますか?」「あらいやだ! クマくん はやく はだかんぼに なりなさい」「いたずらっこの たろうくん からだを ちゃんと あらうのよ」という四つのセリフ。「なりなさい」「あらうのよ」と命令口調で、どう考えても、べたべたあま~い母親のことばとは思えません。Aさんは、このきっぱりした歯切れのよいことばを声に出して読みながら、あぁ母親は息子といっしょにお風呂場にはいないんだ、これはお風呂場のドアをはさんだ向こう側とこっち側の会話なんだ、ということを実感したようです。それは、「見えないけれどしっかりわが子とつながっている」自信があるからこそ多少ぶっきらぼうにも思える母親のこのことばかけが活きるのだという
発見にもつながっていきました。そして、改めて絵を見やると、おかあさんがお風呂場の外から声をかけてきた時だけ、主人公の男の子は、他の場面と同じ正面を向いているにも関わらず、まんまるい目玉を声のする方にちらっと動かしているではありませんか。「ふふっ、おかあさんの言う通りにはならないいたずらっこだけど、やっぱりおかあさんのことは気になるんですね」とAさん。一見単純に見えるこの絵本に潜む男の子と母親の大事な距離感に思い至った時、傍らにいないからこそ注げる「深い信頼と愛情」を自分の声にのせてわが子に届けてみようという決心がついたようでした。
この本を「見えない息子」といっしょに読みあうと決め、マイクの前に座った日、Aさんは初めて「私の息子の名前『そら』なんです。」と語ってくれました。え~、なんで早くそれを言わないの? と一瞬思いましたが、そうではないんですね、きっと。絵本のタイトルに息子の名前が入っているからこの絵本を選んだのではなく、この絵本に、異空間を結ぶ親子のやりとりの奥行きと信頼の声を聞き取ったから、ようやくそこに自分のわが子への思いをのせる決心がついたということなのではないでしょうか。もちろん絵本タイトルの「そら」は掛け声であって、子どもの名前ではない。でも、この絵本に潜む「声」がそれを重ねることを許してくれていると、何度も何度もページをめくりなおし読みこんでいくうちにAさんは確信したのだと思います。そういう読みに耐えられる絵本だったのだということに、恥ずかしながら私もはじめて気づきました。
Aさんが、録音を終えて言いました。
「外から教えられたことは、どんないいことでも、釈放されて、外の世界のもっと強烈な誘惑にあったら、きっと忘れてしまうような気がする。でも、ここで絵本を読みながら見つけたのは、自分の内側の声だから、これは、忘れようがない。絵本のおかげでみつけ
たこの声は、きっと私の鏡になる。」
彼女の、自分と世界を結ぶ大きな手掛かりがある、と思いました。
絵本を語るその中に。