読書の亀
竹内 通雅
僕は読書が苦手です。
どうもすいません、ペコリっと頭を下げたい気分です。
曲がりなりにも「絵本」という「本」を作るのが僕の仕事のひとつですが、本を読まないと絵本が作れないというわけでもないので、別に謝罪するというのもおかしな話ですが、なんとなく後ろめたい感じなのですね。
子供の頃から落ち着きがなく、集中力が持続しない。そうした性格の影響もあるのか、本を読み始めても長続きしたためしがありません。10分くらいで気が散り始めます。
それから、僕は活字を追いながら、その場面を脳裏に映像化しないと気が済まないのです。言葉を読みつつ、その文の意味する情景を逐一自分色に染め上げて行かなければ、前に進めないのですね。
だから、時間がかかります。
そうこうしているうちに、自分で作り上げたイメージ像がむくむくもやもやとわき出してきて、読んでいる本の内容や主旨とは遥かにかけ離れた空想の世界へトリップしているのでした。
まるで妄想する亀の散歩だね。
そんなことの繰り返しが続くのだから、だいたいは途中で心が折れてしまうのです。でも、いいんじゃないですかねえ、心なんていくらでも折れたりすれば。
そんなふうに「本」という物体を前にすると、蛭が縮むように気持ちが怯んでいましたが、マンガはよく読みましたね。月刊誌、週刊誌問わず大好きでした。あとテレビアニメも。
マンガには既に絵がついているのだから、頭の中で映像を組み立てる必要がなく、ストーリーに集中できるんですね。じゃあ「絵本」もそうなのでしょうか? さて、それはわかりません。
では、僕が読書嫌いでも絵本を作ることができるのは、僕が絵を描けるからなのでしょうか?まあ、それはあまり関係のないことでしょう。
それよりも想像することや、妄想することの楽しさを知っていることのほうが大切のような気がします。あ、それからもちろん、いままでの様々な経験も重要だってことはいうまでもありませんが。あんなことをした、こんなことを見た聞いた、っていうような経験値ですね。
確かに僕は読書が苦手でしたが、青年期にはけっこう読みましたよ。だって、本くらい読んでないと格好悪いしね。
それから当時の僕は、現代美術のカテゴリーで作品を発表していたから、理論武装の必要があったのです。理論武装には知識が必須で、知識を効率的に得るにはなんといってもそれは読書でした。
ジャック・デリダ、アラン・ジュフロワ、レヴィ=ストロース、メルロー=ポンティ、ロブ=グリエ、フーコー、フッサール・・・・・ああ。
19~ 25歳の頃に実際に読んでいたのです。しかし、それで理論武装ができたかは記憶にございません。というより、理解しながら読んでいたのでしょうか?我ながら、今となっては甚だ疑問ですね。内容を解釈し記憶したかということより、ただそれらの「書物」を読んだ、という「思い出」だけが残っているのでした。
しかし相変わらず不器用な読み方ながら、併せて読んだいくつかの小説などは、今でも何かしらの糧になっているのかも知れません。
その中でも、レオ・レオーニの『平行植物』(工作舎)は極めつけでしたね。
読んでいるうちに、いつしかファンタジーが現実との境界線を越境し、まるでノンフィクションノベルを読んでいるような錯覚にとらわれたものです。
そうして現在に至り、僕は絵を描いたり、お話を書いて「絵本」という「本」を作る仕事をするようになりました。
『イチロくん』は、僕の最新作の絵本です。これはポプラ社(おとうさんだいすきシリーズ)の3番目で、既に伊藤秀男さんと長谷川集平さんの作品が刊行されていました。
お二人とも周知のとおり、評価の定まった大ベテランですから、そのあとに続くには少しばかり気合が必要でした。
おとうさんが寝付けない子供に、いい加減なお話を聞かせるというありふれた設定ですが、おとうさんの語る世界と、おとうさんと子供の会話のシーンとがパラレルに進行する構造になっています。
「平行絵本」でしょうか・・・・・。