絵本学会

振り返ってみると
澤田 精一

 2011年の4月、62歳満了日をもって福音館書店を定年退職となりました。38年間、勤めたことになります。そのなかで編集部に在籍したのは20年ちょっとでした。「子どもの館」「こどものとも」「こどものとも年中向き」「こどものとも年少版」「かがくのとも」を担当してきました。各セクションの在籍期間は、振り返れば短いものですが、これだけ各ジャンルを担当した編集者もいないです。
 1973年に入社した頃は、社長の松居が40代後半で、社員の平均年齢が28歳くらいの若い会社でした。戦後の子どもの本を創った著者の方々も健在で、そういう人たちと会えた最後の世代でした。光吉夏弥、瀬田貞二、石井桃子、渡辺茂男、いぬいとみこ、堀内誠一、瀬川康男、中谷千代子、乙骨淑子、矢川澄子、岸田衿子……、今や、いずれも鬼籍に入られて感慨深いものがあります。
 そればかりか、神保町のランチョンで昼食をしていると、高笑する吉田健一を目撃したり、路上の電話ボックスから中村光夫がでてきてアッと思ったり、三省堂で本を探していると隣に吉本隆明がいたのに気がついたり、文士バーで野間宏に緊張しまくって挨拶をしたり、同じく川村二郎から小林秀雄は勉強不足だという話をうかがったり……、そういうこともありました。
 1991年に再び編集部にもどると、今度は絵本の編集を担当することになります。もう光吉夏弥さんも、瀬田貞二さんもおりません。頼りは自分だけ。そこで現代美術の大竹伸朗さんに絵本をお願いしたりと、そういうことがはじまるのですが、やはりいろいろ試みながら企画編集していく作業と、そうしてできた作品をどのように評価していくのか。そのことが自分のなかで問題となりました。実作と評価。作家と評論家。そのふたつがそろっていないと、新しい作品はなかなか認知されないし、その作品の位置も決まらないはずです。ちなみに日本の戦後文学は、三島由紀夫、大江健三郎などの作家と、平野謙、中村光夫などの評論家のタッグでその地位を築いていった経緯があります。しかし絵本の世界で評論家と呼ばれる人は、その当時、ほとんどいないといっていい状況でした。
 このことは今でも、そのままになっていると思います。アンケートや紹介・解説の類はたくさんありますが、1冊の絵本をめぐってのクリティシズムはなかなかお目にかからない。いや、そういうクリティシズムが成立するには、そのための土壌が必要でしょう。学生時代の乱読のなかで、T・S・エリオットや、I・A・リチャーズ、J・B・プリーストリなどの評論は必読図書でした。そういう仕事というか、そういう精神の営みというか、そういうものを肌で感じた者にとって、絵本を語るそのなかに、とても言い難いのですが、なにか非常に希薄なものを感じていました。
 そこで絵本の編集をしながら考えていこうというか、いやむしろこういうことを考えながら絵本の編集にむかうということになっていきます。90年代の初めでした。今までお付き合いのあった最首悟さんが、独自な思想を産みだそうとしていた時期でもありました。最首悟さんは当時、東京大学教養学部の助手でした。助手は遠からず助教授になることが約束されているのですが、東大闘争がからんで、万年助手の待遇を受けていました。しかも東大では、助手は講義をすることができないのです。
 そこで私が一対一で最首さんから講義を聴いてもいいのだけれど、そうならば会場を借りて、最首さんの思想が生まれるのをみんなで目撃しようということで、連続講演会「子どもの本にひそむもの」という会を組織しました。「子どもの本にひそむもの」は、会の名称ではありません。演題です。いつ来ても、いつ止めても、自由です。皆勤しても卒業証書は与えようがない。会場で最首さんの話を聞いてそれでお終いという集まりです。こういうとき、よく「○○塾」という名称を使う例があるのですが、それはダサイと思いました。その連続講演会は1992年から隔月の土曜日、神保町の学士会館で開きました。参加者はだいたい毎回20名前後ですが、のべにすれば相当な数にのぼります。そして2001年頃、50回を数えるあたりで、なんとなく終わったというか、終わりもまたないような案配で終了しました。
 この「子どもの本にひそむもの」は、確かに最首さんの思想の土台をつくっていったと思います。しかし編集者としては、著作に結実しない活動はどうなんだという疑問がないわけではない。そして思想家・最首悟は誕生したのだけれど、絵本評論家・最首悟はいなかった。いや、思想家・最首悟は絵本の評論もやるだろうけれども、それは最首さんの思考の中心にはないということが、ちょっと残念といえば残念なんです。
 しかし振り返ってみれば、「コンセプチュアル・アートの旗手を絵本の世界に引き込んだ(『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅲ』ミネルヴァ書房、p.393)」ことからはじまって、まったく地道な講演会を続けながら、今まで福音館と縁のなかった何人もの作家に依頼したり、そして編集だけでなく、絵本コンペの審査員をしたり、大学で教えたり、あちこちの雑誌に絵本についての文章を書いてみたり、専門誌の編集委員をしてみたり……。なんでこんなにいろいろなことをしたのかと思います。好奇心? いや、私にとって絵本という表現は自明のことではなかった。だから、いろいろなアプローチをしなくてはならなかった。そういうことは、福音館の編集者をはじめ、プロの編集者はやらないでしょう。ということは、私はアマチュアとしての資質がそうとう強かったのではないかと思います。どうもアマチュアのほうが、思いもかけないことをやるんですよね。